午後8時、支度は万全だ
着替えとお金とカメラ
車に乗り込んで、キーを回した
繰り返す日常
進まないすべて
全く何も変わらない
自分を追いかけるものが
煩わしくて仕方がなかった
半ば追い立てられるように
逃げた
そう、逃げたのだ
札樽道を飛ばしていると、
ありとあらゆるものが
流れていくような気がした
千歳が近づいたころ
私は左へハンドルを切った
何も、自分を止めるものはなかった
北海道を回って周って廻った
この大地には、何一つ制約がない
まさに自由の土地だ
やるかやらないかは、本人次第だった
やろうと思えばできた
やらなければまた確実に時間が流れてしまった
改めて北海道は美しいと思う
いまさら野暮だが
書かないと嘘になってしまう気がする
北海道の光は、鋭い
日光は我々に気力を供給し、
さあ、走れと呼びかける
夏も冬も、私はいつも走っていた
遠くへ向かっていた
良い写真が撮りたい
そう思って、快晴の日を狙って
夜明け前から動き出していた
ある時は一面の蕎麦畑の中で、
またある時は、零下10度を下回る寒さの中で
私はひとり、前に進む
道は続き
天気は私を祝福する
行く手を阻むのは唯一、海だけ
どこまでもいける
そんな気がしてくる
旅に駆り立てるきっかけは
青い空と白い雲
そして、輝く太陽だった
途中で気がついた
どこもたいてい似たようなもので
見たことのない景色というのは
そうそうないということに
そもそも自分の行為は 誰かの繰り返しだった
調べれば調べるほど
それがよく分かった
すべてのものは常に変化する
あらゆるものは常に失われ、生まれる
だから終わりもなかった
こんなことを思ってしまうと
どこか報われない寂しさに襲われる
確かに 数多の記憶が、経験が、
感動が、疲労が
そしてもう一度訪れたい景色があった
車のオドメーターは回り、時は流れた
楽しい時間があった
なにより、写真がそれを記憶している
けれど、それらの景色が
どこか無意味のように思えてしまった
でも、それでも、
あらゆるものを探し
あらゆるものを見に行った
繰り返しだと分かっていても
もっと見たかった
こんな、
旅自体が目的になってしまうような浮遊感のなかで、
視点も自分の感性すらも、誰かの繰り返しであると
気がついてしまった
常に大いなる先人の足跡を踏んでゆく
あるとき、このもどかしさが
耐えられないほど辛くなった
旅をすることは、特別だった
あらゆる責務から逃れて、
自由に振る舞うことができる
それに必要な時間とお金、体力
この3つが揃っていた
何一つ不足はなかった
こんな機会は、滅多にあるものではない
ちょっとお腹は空いていたけれど
睡眠時間に困ることもなかった
起きなきゃいけないのに
起きられない、なんてことはなかった
こんな環境にいながら
何一つ形のあるものを作れないことが
とてもプレッシャーだった
何も作れない、生み出せない自分が
情けなかった
既に見られた景色と同じ景色を確認して
それで一体何になる?
私は何もできないのではないか……
何回かこの自問を繰り返した
でもやはり
道を進んでみるしかなかった
自分の限られた時間と力で
とにかく何かをすることで
辛さを忘れようとした
道はいつも静かで
問いかけも答えもしなかった
ただ、空間を分けてくれるだけ
多くが見えるこの世の中で
ただ不安ばかりが膨らむ男に
道は、道は……
ただ一つ、
進めばどこかにたどり着くのは確かで、
前に進んでいるとき、心は充実していた
心を埋めるには、前に進むしかなかった
次第に、あらゆるものが消えていった
お金
時間
将来
途中で、戻れなくなっていると気がついた
もう、旅しかできなくなっていた
怖かった
レールから外れてしまったような感覚がした
冷えた鉄のようなものが、背中に触れた
どうにかして元に戻りたい気持ちもあったが、
もはやそうはできなかった
時間は残酷に流れていった
自分一人だけ「旅」の中に取り残されたような気がした
もうここまで来たら
旅を続けるしかなかった
それしかできなかった
途中でふと繋がった気がした
そもそも旅に成果を求めるのが間違いなのだと
ただ景色はそこにあり、
自分は身体をそこへ持っていっただけ
一瞬の時間を、その場の空気と共にしただけ
むしろその場にいられたことに感謝すべきではないだろうか
あらゆる努力に無駄はなかった
すべては一本の糸の上に起こったこと
確かなこの感動を
忘れたくないならば、また行くだけ
そしてまた、
行かなくてもよいのだ
できないならばまたそれも運命だ
すべてを手にすることは端から無理なこと
何かを手にする時、確実に取りこぼすものがある
その選択において、何を中心に据えるのか
大きな世界と、小さな人間
この2つの関係を、旅はきっぱりと突きつけてくれた
家に帰ってくると
モラトリアムの中にいながら
何もできない自分と向き合うことになる
報われない悲しさと
繰り返しを打破できないことに
押し潰されそうになって
繰り返しに気が付いたあの時に
なぜ撮るのかという問いは
なぜ自分は生きるのか
というものにまで大きくなってしまった
思い出される景色のなかで
後悔ばかりが浮かんできて
部屋での整理から生まれるのは
湯呑みの底にたまったような澱ばかり
けれども、ふと窓の外を見てみると
風に流れる雲の切れ間から、
陽光が鋭く刺し、清涼たる青空が
燦然たる太陽が顔を出している
どうして部屋の中で、
終わりのない疑問と
戦わねばならないのだろうか
そう思ったとき、
ふっと、切れた
飛んで行った
何かが、欲しかった
しかし、急いでも無駄だった
とりあえず生きねばならない
生きねば、前にも進めず、
また後ろにも戻れず
なにより楽しみもない
自分が誰かの繰り返しで
なんだというのだ?
誰が誰よりどうだとか、
誰の仕事がどうしたとか
そんな事を言っている暇はなかった
ただ、風が吹いていた
向かい風も、振り返れば
追い風になるだろうか
あきらめにも似た感情だけが、
繰り返していた
そこに行った 確かに見た
この達成感だけが自分を押してくれた
ここで止まってしまえば、
それこそすべてが無駄になってしまう
満足するまでやってしまおうと
また行先を決めた
「すべて」まで、あと少し
常に変わる
行ったたからと言っても
次に活かせねば、なかったのと同じ
だからまたやって
失われるものを横目に
写真を撮った
なぜ行くのか?
ただ道があるから
行ってどうするのか?
そんなことは、考えない
ただ暇を作って行くのみ
現実を棚に上げて、楽しい所をかっさらう
ちょっと背徳じみた、この悦楽
過去も未来も捨てて
今を精一杯、誰よりも生きる
すべてを捨てて、とにかく走る
人生は誰かの複製かもしれないけれど
自分にとってはすべてが初めてで
ただ、世界の広さを受容するので精一杯だった
なにより、私はすべてを見たかった
「すべて」が存在しないと理解しつつも
やはりそれに近づきたくて、仕方がなかった
生き続けられなくなったら、死ねばいい
こう思い切れるのも、死を知らぬ人間の特権だった
旅をするほど、
旅は私を追い詰めたのかもしれない
旅が与える事実は、痛烈だった
「あなたは誰かと同じ」
「あなたは何もできやしない」
手にしている時間・体力・お金を
すべて使って得られた結果の一つが
これだというなら、
まさしく残酷と言わざるを得ない
この事実と向き合うこと、
それが旅であり、生きるということ
なのかもしれない
けれども、自分が見てきた景色は
旅の中で出会った人たちは、
確かに綺麗だった
間違いなくあの時、
「生きていてよかった」と思った
体中の血が沸き立つような興奮が、
全身の神経が繋がったような快感が、
そこには、あった
なにより、
風に吹かれることが心地よかった
私はそこにいた
なるほど
振り返ってみれば
なんと当たり前のことか
旅は何かを生み出すものではなく
何かのために、私をつないでくれるもの
そして探していた自分はただの人
旅は思い出 繰り返すこの世の楽しみ
私は生きて、どこかへ行かねばならない
モラトリアムはもうすぐ終わる
どう生きるのか
私は、何ができるのか
この先どうして、1人でやっていけるのだろうか
悩んでも、どうしようもない
私には2本の脚と脳みそ、
そしてカメラがある
ここで立ち止まることもまた、許されていない
繰り返しに過ぎなくても、
楽しんでしまえばいい
そう思いながら、布団に入った